2009年4月16日木曜日

Easter II: Testimonies

復活主日の直後の日曜は、伝統的にQuasi modo Sundayと呼ばれる。これは、この日の礼拝への招きが"Quasi modo infanti・・・"と始まるIペトロ 2章であることから来ている。「あたかもquasi うまれたばかりの 嬰児のようにinfanti」、とは、直接的にはイースターの大徹夜礼拝で洗礼を受けたばかりの新しい信徒たちを指している。しかし、その比喩をとおして、主の復活と黄泉降下、そして復活を経験して、この年も再び新しい命に生かされた礼拝共同体全体に向かって呼び掛けられる勧めと招きのことばとなる。
「うまれたばかりの嬰児のように」まっさらの心と魂、瑞々しい感性で賛美の声を挙げるように招かれている。

ちょっとしたトリビアだが、「ノートルダムの鐘つき男」の主人公であるコシモドの名はこの日曜に由来する。コシモドは、イースターの次の日曜の朝、大聖堂の扉の前におきざりにされているところをかの司教に見いだされ養子とされるのだ。quasi modoの日曜に捨てられ、また拾われた赤子は、その名の由来となるみ言葉のとおり、いつまでも無垢で純粋な魂をもっていた、ということだろうか。

礼拝の伝統、ということでいえば、この主日にはまた「疑うトマス」の福音書記事を読むことになっている。「観ないで信じるものとなる」その大胆さ、そしてシンプルな魂のあり方への招きがquasi modo Sunday全体のテーマと響き合う。トマスは、「その傷あとに自分の指を入れて確かめる」とだだをこねはしたが、実際、復活のイエスをまのあたりにしては、イエスの衣にさえ触れず、ただひざまづき、信じた。トマスもまた、わたしたちと同じように、ただイエスが共にいてくださるという確証を願いもとめる「迷える子羊」だと言える。

さて、今年の教団の聖書日課で示されるこの日の福音書朗読箇所は「復活証言」の、全く対立する物語のうちの「否定」の部分。

「復活の主に出会った」という女性たちの証言がdevalueされ、「イエスの遺体を弟子たちが盗んで復活したという狂言を打っている」というユダヤの宗教的権威者たち(当然ながら男性)のdemagogueが信憑をもって流布される(男の弟子たちはこの間、なにをしているんでしょうかね)。 目の前の出来事を如何に解釈するか、それはその「意味」を語る者が何によって生きているか、何を人生の価値と考えているかによって大きく左右される。「空(から)の墓」という*事実*からどのような*真実*を引き出すのか、そこに「復活のイエス」の姿を見いだせるかどうか、それは「空(から)の墓」の前に立つ「私」が、一人の社会的存在として認められず、したがってその言葉も声も、公のもとのはみなされない「女性たち」と共に立つのか、或いは、権力と経済力に任せて保身に務める「祭司長たち」や「民の長老たち」、また権力にまつろい、その庇護の下で甘い汁を吸う「ローマの兵士たち」と共に立つのか、に掛かっている。

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